2016.07.21
自戒の念を込めて記す。
人は常に自分の人生の主役を生きている。自分以外の周りの人は自分の人生の舞台にとっての脇役であり、自分の人生が幕を閉じるとき、その存在は少なくとも自分の中からは消えてしまう。
はたから見たらつまらなそうに見えても、すべての人はその人生の中で例外なく主役なのだ。だから、最近のテレビドラマや映画のように、主役以外のキャストにスポットを当て、スピンアウトの特別編が作られ、そこにある違う視点からの人生に感銘を受けたりもする。
ところで最近、特に稽古の指導中に、ふと感じることがある。
大勢の気合の中で稽古をするのは、少数での稽古とまた違い別の気持ちよさがある。稽古をやっているんだなあという充実感がそこにはあふれている。しかし大きな気合の響くその空間の下で、「主役を演じているもの」、「脇役を演じているが機会が来れば主役に転ずるもの」、「今は脇役だがいつかスピンアウトの特別篇で脚光を浴びるもの」のほかに、「その他大勢」というものがこの世にはいるのではないかと思うことがたびたびあるのだ。自分以外の他人を際立たせるためだけにいるかのような「その他大勢」である。
「その他大勢」がいることによりもちろん道場は活気づいているのだが、そこに「存在」しているのは「その他大勢」以外の道場生で、「その他大勢」はただそこに「ある」だけのように感じてしまう。
簡単に言ってしまえば、その違いは真剣に立ち向かっているかどうかだけである。真剣に立ち向かうためには、その場所に来る以前の普段からの準備と、常日頃から持ち続ける稽古に対する心がけが必要である。それなくして皆と同じ舞台に立っても、それはやはりただそこに「ある」だけで、それ以上でもそれ以下でもない。それが「その他大勢」なのである。
それは武道だけではない。人生の様々な局面で自分を偽らずに真剣に立ち向かっているかどうかである。もちろん常に真剣である必要はない。時と場合によっては人は力を抜くことも必要である。要は自分を偽らないということが大切なのである。武術の稽古が自分の人生の息抜きの場であっても構わないと私個人は思っている。息抜きと手抜きでは全く違うのである。
現代において武道を学ぶ意味は、それぞれ違っていて当然である。それよりも武道を学ぶことによって自分の人生に何をフィードバックできるかが大切だとも思う。ただしこれだけは言えるのだが、武道を始めようとした頃の自分にとって、間違いなく武道とは自分の人生のなかの「光」のひとつだったはずである。その光が日々の生活に追われ、ごまかしを憶え、徐々に輝きを失っていくのである。
ただ漠然と生き、漠然と年を取り、漠然と死んでいくのも人生かもしれない。その選択権は自分にある。しかし、実際はそれを選択したというより、他の大切なもろもろを選択しなかった結果そうなってしまっただけなのではないだろうか。
テレビや映画のスピンアウトで主役を与えられるものも、その役の中でしっかりと自分の人生を生きているものたちばかりである。
なまけてばかりや、言い訳してばかりの人生は、もうすっかり鈍感になってしまった自分自身には見えなくなっているのかもしれないが、実は舞台を見ている客(自分の周りの他の人々)からははっきりと見透かされている。そしてそれを気づいていないのは自分だけなのである。
その他大勢になってしまってはつまらない。今からでも遅くはない。自分自身の人生をしっかり生きようではないか。