2014.04.24

≪七十にして矩を踰えず≫

先月ことだが、広島に行き久しぶりに廣原先生とゆっくり話をする時間をもつことができた。

普段お酒を飲まない私だが、その日は差し向かいということもあり久々に痛飲した。

思えば廣原先生とは本当によく飲みに行った。

30年前に初めてお会いした日も、夜歌舞伎町へと繰り出しにぎやかな飲み会となったのを昨日のことのように思い出す。それ以来東京、ロサンゼルス、広島と一緒にいるときは必ずそこにお酒があった。そして、ビールが大好きな廣原先生は店を何軒ハシゴしようとも、「じゃあ、とりあえずわしビール」と、ずっとビールを飲み続けていた。

「わし、最近は日本酒にこっとるんよ」

そういいながら徳利を片手に杯を重ねる先生にお付き合いして、私もしっかりと酔っぱらっていった。

「広島の道場の昔からおる黒帯連中はもう稽古に出ることを禁止にしたんよ。もう全員にそう伝えたけんね」

どれぐらいの時間が過ぎただろう。突然の言葉に驚かされた。

「わしのとこにおったら自分で考えんようになるじゃろ。わしが教える技をただ何にも考えんで稽古するだけになるけえ。それじゃあ進歩がないんよ。それにもうあの連中はどんなに勝手な動きをしても心体育道の動きから外れることはないけんね」

論語の不惑で有名な一説の中にある「七十而従心所欲不踰矩≪七十にして心の欲する所に従えども矩(のり)を踰えず(こえず)≫(70歳になって、自分の思うように行動をしても人の道をはずすことはなくなった)」が私の頭の中に浮かんだ。

常日頃から弟子たちに言っているが心体育道とは思考法である。心体育道という思考法が身についてしまえば、無駄な動きをすることなく相手の攻撃に対処できるようになる。

競技格闘技全盛の世の中、ともすればつい本質を見失い、ルールが少ない格闘技を実戦武道と取り違えてしまう。そしてその戦い方があたかも実戦的であるかのように勘違いする。ルールが一つでもあればどんなに激しい戦いであってもそれはスポーツなのである。護身の世界では、その動きが命取りとなる。

心体育道の思考法を身につけた広島の黒帯たちはもうどんなに好き勝手な動きをしても実戦という「矩(のり)」を「踰え(こえ)」ることはない。

「稽古に来るなっていう道場はなかなかないじゃろ」

廣原先生は大笑いしながらそういうと日本酒の盃をぐいっとあけた。